校章について

「笹りんどう」の中に、「小・中」の文字を配したのが本校の校章である。「笹りんどう」は、源氏の紋所であり、今を去ること900 余年前の治承の世、当地に育った木曾義仲は、この紋所のもと源氏を復興せんとして、敢然と平氏に戦いを挑んだ。このたくましい闘志は、厳しい冬の寒さに耐え、あの清楚な花を咲かせる高原の植物「りんどう」の姿を彷彿とさせる。本校に学ぶ者は、あの闘志を胸に、「りんどう」の美しさをたたえながら、何事にも積極的に取り組み、弱い自己の心に打ち勝ち、美しく豊かな心の持ち主になることを願っている。

 

校歌   尾崎喜八作詞 平井康三郎作曲
【日義小学校】 

一 ふるい歴史に 名も高い木曽の谷まの宮ノ越
  みどりの里に勉学の窓を光らす学校よ
  ピアノのしらべ歌の声ぼくらの日義小学校

二 かよう山道村の道 長い国道いくまがり
  先祖のふんだその道を ひらくみんなの勉学よ
  日に日に進む世の中に おくれずぼくらあゆむのだ

三 冬は高原雪すべり 春はたのしい山遊び
  かがやく夏の水泳に 秋はもみじの木曽谷よ
  月夜の光星の空 朝ぎり燃えるうつくしさ

四 今日もたのしく学校へ いそぐぼくらやわたしらの
  ひたいを照らし顔なでる 木曽の春日よ朝風よ
  希望の門もひろびろと ひらいた日義小学校

 

【日義中学校】
一 花の都の空遠く 山々ひいで谷深み
  木曽川いまだ源の 清冽うたう宮ノ越
  ああこの清きふるさとに 母校は立てり日義校

二 若き心は木曽山の 檜のごとく直けれど
  山路にひらくりんどうの 剛毅と美とを失わず
  ああいさぎよきふるさとに われらは育つ日義校

三 燃ゆる朝日の駒ヶ岳 夕日ににおう御嶽を
  理想の空に夢みつつ やがては上がる君が旗
  ああ英傑のふるさとに人とは成れと日義校

四 つつじ山吹橡の花 初夏高き鳥の声
  巴が淵の水青く もみじの秋を映したり
  ああ美わしの此の里に われらの誇日義校

 

日義について
【位置】
 木曽町日義は長野県の南西部、木曽郡の北東部に位置し、東南方には駒ヶ岳が聳え立ち、これより分岐して東北に山岳が連なって広がる風光明媚な土地である。旧楢川村(現在は塩尻市)と木祖村に界して位置し、面積約56.25 平方km と、木曽町の中でも面積の狭い地区である。標高870m、木曽川と正沢川でつくられた木曽としては珍しく大きな扇状沖積地緩斜面になっている。木曽川の河岸段丘には水田が開け、台地の上は畑作地帯になっている。正沢川を界とした地帯は木曽町福島地区と隣接し、木曽駒高原といわれる観光地になっており、別荘、文化施設、道の駅等が建設され、中京方面その他から観光客が多数訪れている。また、平成18年に中央アルプスを横断する権兵衛トンネルが開通してからは、木曽谷(日義)と伊那谷が20分ほどで行き来できるようになり、大変便利になった。

【気象】
 気候は高冷地の特色で、夏は涼しく冬は寒気が厳しい。年平均気温は9℃で松本の11℃と比べても2℃の差があり、夏は避暑地として適する。冬期は最低-17.6℃になることもある。積雪量は少なく年間の最高で20cm 前後である。また年間降水量は割合に多く2,000mm に近い。松本平の1,200mm に比べると多雨であるため、樹林が多く、寒冷地の樹種であるしらかば、から松、赤松の林が続き高原の風情がただよう。

【歴史】
日義の各地には縄文時代の遺物が出土し、また木曽には珍しい弥生式土器住居跡が出土(大原ゴルフ場巴の松遺跡)していることから、先住民が原始時代から棲みつき、継続して住んでいたものと思われる。歴史時代になっても平安、鎌倉時代の遺物が出土している。これらのことから古来より農耕に適した土地であったということがうかがわれる。また、交通の要地でもあり、木曽の最初の古道は神坂峠、伊郡谷を通っていたものであるが、奈良時代(和銅6 年)に木曽路開通が朝命で行われ、完成した。当時の宿駅として「原野」の地名が記録にある。木曽荘園の統治者中原兼遠は現福島町上田付近に根拠をおいて木曽義仲(1154~1184)を養育したといわれる。その後、義仲とその郎党は宮越、原野に居住していたと言われており、それらにまつわる遺跡や伝説が今日でも残され、日義の人々は義仲を偲ぶ行事を受けついできている。明治7 年9 月宮越村、原野村が合併して、旭(朝日)将軍木曽義仲にちなんで日義村と命名することになる。そして平成17 年11 月、近隣の町村が合併し、それ以降「木曽町日義」として現在に至る。

 

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